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出世城

はじめての書き込みです。

歴史は戦国時代限定で興味があり、書籍とか読みまくっています。
歴史は時の権力者に都合が良いように塗り替えられた可能性が高いので何が真実かわからないというのが本当のところではないでしょうか。
 色々な角度から考察して過去に想いを馳せるのもなかなか楽しいものです。

戦国時代、東三河、遠州地方は激戦区でありましたので、ときおり地元の歴史を個人的な視点からですが紹介していきたいと思います。

今日は地元のお城、浜松城をを紹介したいと思います。


元を曳馬城(引馬城、引間城)という

 桶狭間の合戦で当主、義元が憤死した後、没落した今川家より独立の道を選んだ徳川家康が永禄11年(1568年)遠州地域に進出したときに「ひくま」=「引く馬」=「負け戦で馬を引く」と験かつぎが良くないことから曳馬城から濱松城へと改名した。
 元亀元年(1570年)甲斐(現在の甲府)より武田信玄が遠州地方に遠征してくると三方原にて徳川軍と激突、三方原の合戦が勃発する。 敗走した家康は恐怖のあまり鞍の上に御味噌(糞尿ともいわれている)を漏らしながら浜松城に帰城した。この敗戦の恐怖を忘れまいと己への戒めも込め絵師に恐怖におののく自画像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を描かせている、そのご湯漬けを掻き込み高いびきをかいて熟睡したと言われている。 また、家康の帰城後も全ての城門を開いて篝火を焚き酒井忠次に太鼓を叩かせたという、浜松城まで来た山県昌景隊、馬場信春隊であったが何かの計略と警戒し城攻めを行わず退却している。これを浜松城空城の計という。


しかし、やはりただものではない家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城北西1Kmの犀ヶ崖に野営していた小山田信茂隊を夜襲、鉄砲を撃ちかけそれに驚いた武田軍は犀ヶ崖の深い崖に次々に転落していった。 後に犀ヶ崖で転落死した兵士の祟りを沈めるため「遠州大念仏」が行われるようになった。

徳川家康時代の浜松城は現在のような天守閣は無く平城であった。
家康が激動の壮年期を過ごし家康が天下取りの礎を構築した城であり、江戸時代に浜松城主が幕府の重役に出世した例が多いことから出世城とも呼ばれている。

浜松城



撮影
カメラ:EOS 5D MarkII
レンズ:TS-E 17mm F4L
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プロフィール

Marcy432

Author:Marcy432
 リーフアクアリウム歴十数年になります。
サンゴの飼育技術は日進月歩なこともあり、まだまだ模索中であります。
 海外旅行に行ったとき、現地の水族館に行くのを楽しみにしています。動画や画像も紹介していきたいと思います。

個人的なブログですのでネットのルールは別として、個人的に不愉快と感じたコメントには対応、公開しない場合がありますので、事前にご了承ください。

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